いらっしゃいませ。お飲み物は何がよろしいですか。
コーヒーをください。ここのスペシャルブレンドで。
松岡さんは何を研究されているのですか。
動物の神経系の発達のしくみについてです。今は、神経細胞は「なぜ他の細胞のように細胞分裂しないのか」について興味を持っています。
神経細胞というと、とても特徴のある形をしていますよね。
そうですね。神経細胞は図のような形をしています。
このような神経細胞が集まり、軸索や樹状突起からなる神経線維が広がっていくことで、信号を伝える複雑なネットワークが出来ていくのです。もしも、神経細胞が他の細胞のように細胞分裂を起こすとしたらどうでしょうか。せっかくネットワークが出来ているのに、それを引っ込めるか分断して細胞分裂を起こすことになります。その後に改めて作られたネットワークは、果たして前と同じく信号を送ることが出来るでしょうか。それは、かなり難しいだろうと想像がつきますね。
ということは、一度できた信号伝達のためのネットワークが壊れないように、つまり神経細胞が分裂増殖が起こらないように抑えるシステムがあるのではないかと思ったのです。
たしかに、「神経細胞は増えない細胞」と学生時代に習ったような気がしますが、他にも、同じように細胞分裂しない細胞というのはないのですか。
細胞分裂(増殖)が抑えられているというだけならば、様々な組織の中で分化の進んだ細胞や老化した細胞に見ることができます。でも、それはそれ以上増えることが出来ないだけで、増えることが都合悪いわけじゃない。逆に同じ神経系のグリア細胞という細胞は神経細胞と同じくらい複雑な形をしていますが、交通事故などで神経組織がダメージを受けると、すぐに細胞分裂を始めて異常事態に対処しようとします。また神経細胞に作用する神経伝達物質やホルモンなどは、他の細胞にとっては細胞分裂の引き金になることが多いのですが、神経細胞では細胞分裂の引き金になることはないのです。
神経細胞って、増えることをかたくなに拒んでいるように見えますね。
そうですね。だから「なぜ?」とか「どのようにして?」思うわけです。
なるほど。では、この分裂抑制に関係するものは何か見つかっているのですか。
最近、私たちは、主に神経細胞だけで見つかるタンパク質があり、それを作っているBRINP*1という遺伝子を見つけました。BRINP1〜3と3種類あり、“BRINPファミリー”と読んでいます。ふつう、構造が互いによく似ている遺伝子(タンパク質)のグループを遺伝子(タンパク質)ファミリーと呼ぶんです.なので、この3つの遺伝子が作るタンパク質はBRINPファミリーのタンパク質となります。(*1 ビーアールアイエヌピーまたはブリンプと読みます)
ここでいうファミリーは、家族じゃなくて仲間って感じですかね。
そうですね。では、ここで質問です。このBRINPファミリータンパク質を神経細胞以外の細胞に作らせたらどうなったと思いますか。
うーん、もしかして、細胞分裂が抑えられてしまったとか。
そうなんです。おもしろいでしょう。それから、最初に神経細胞は分裂しないと言いましたが、生まれる前の胎児の時には、神経細胞になる前の細胞(神経幹細胞)は細胞分裂して増えます。ところが、神経幹細胞が最終分裂の段階を通して神経細胞に変化していく(分化する)時期になると、BRINPファミリーがつくられてくることもわかったのです。また以前から、この時期に脳腫瘍ができやすいこともわかっています。つまり神経細胞の中では、BRINPファミリーのタンパク質が何らかの理由で作られなくなり、神経細胞の分裂が抑えられなくなると腫瘍ができることもあるらしいのです。

細胞を使った実験のほかに、どんなことをやっているのですか。
次の段階として、生体(生きた動物)での影響を確認しようと、このBRINPファミリーの遺伝子が働かないように欠損させたマウス(ノックアウトマウス)を作っているところです。BRINP1遺伝子を欠損させたマウスは出来たのですが、調べてみると神経系は正常に形成されていました。
ということは、BRINP1遺伝子は細胞分裂の抑制とは関係なかったのですか。
いえいえ、そういうことではないんですよ。細胞レベルの実験では、BRINPファミリーたんぱく質をもともと持っていない細胞に入れてみると、どのBRINPも細胞分裂を抑えることを確認していますから。たぶん、3つの遺伝子のうち1つが働かなくても、残りの遺伝子がそのはたらきを補っているのではないかという仮説が立てられます。生体の中は、とても複雑であるとともに融通がきくようになっているので、ある遺伝子が働かなくても他の遺伝子が補ったり、全く別の要素が補ったりすることはよくあるし、逆に複数の遺伝子が一緒に作用しないと効果が現れないことも、よくあることなのです。
そうなんですか。では、遺伝子一種類だけじゃなくてBRINP1とBRINP2というように、2つ以上の遺伝子を同時にノックアウトしたらどうなるんですか。
ええ、実際、そのようなことを確かめようとしています。ただ、2つ以上の遺伝子のノックアウトマウスを作るということは、とても時間のかかる実験手法なんです。しかも、全く予想外の結果が出ることもありますからね。まあ、そこが研究の面白さでもあるのですが。
難しいのですね。
確かに難しいですが、でも、どんな研究でも自分の立てた仮説と結果が違うことは、別に珍しいことではないと思いますよ。大事なことは、たとえ予想と違う結果が出たとしても、失敗したと投げ出してしまうのではなくて、なぜそうなったのか、段階を追って解き明かしていくことです。それが研究の醍醐味なのです。
これは、将来大学に進学しようとしている高校生へのメッセージですね。
ははは、ちょっと説教じみてしまいましたか?
いいえ、そんなことはないですよ。でも、ちょっとまとめに入ってしまいましたね。では、最後に、これからどのように研究を進めていく予定なのか、聞かせてもらえますか。
さしあたっての目標は、このBRINPがどんな時に機能するかを明らかにすることです。というのは、細胞分裂を抑えるという役割は、さきほども話した「神経幹細胞から神経細胞が作られる発達期」だけではなくて、それ以降でも、いろいろな状況に応じて必要とされていると考えられるからです。例えば、様々な神経伝達物質やホルモンの作用によって神経細胞が過剰に興奮するような状況というのは、実は神経細胞にとって危機的状況なのですが、そのような条件で、神経細胞を安定に保とうとすることもBRINPの役割らしいのです。そしてその結果、神経細胞の活動、興奮によって学習や記憶が形成されることにBRINPがどのように関わっているかを明らかにしたいということです。
「覚えること」や「忘れること」にも、先生が見つけたBRINPファミリーが関わっているかもしれないのですね。おもしろいですねえ。ほかにはどうですか。
そうですねえ。先の話になりますが、神経細胞の分裂の抑制のしくみと脳腫瘍などの神経疾患との関係が明らかになれば、脳疾患を診断する上での診断薬作りに、さらには治療薬の開発に発展できるのではと思っています。
どんどん広がっていきますね。今日は、とても興味深いお話をありがとうございました。